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サムライくりすちゃんを目指す、一クリスチャンのにっき
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Iコリント12:25
「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」

てでが以前、勤めていた会社は、
ポストプロダクションという業種?の会社です。
映像製作の会社なんですが、
撮影が終わったビデオを編集する作業を主にする会社です。
だから、撮影現場に行ったり、
有名人と顔をあわせたりすることはまぁ、めったにありません。。
一つの作品が出来上がっても、
あんまり表に見えてこない作業をしている会社なんす。。
ところが、この仕事が無ければ、
映像はただの断片的な記録になり、作品にはなりません。
いわば、映像作品の骨組みをしているような会社なんです。

世の中には、目に見える仕事と目に見えない仕事がありますが、
教会の奉仕にも同じ事が言えます。
目に見える奉仕と目に見えない奉仕があり、
結果の残る奉仕と、結果の残らない奉仕があります。
例えば、男子寮のトイレの電気がつけっ放しだったので、消すとか。
こういうのは、形の全く残らないものです。
消し忘れた本人は、指摘されなければ、
自分がトイレの電気を消し忘れたなんて夢にも思わないでしょう。。
こういう奉仕は、天に宝を積む奉仕と思いませんか?

どうしてこんな話をしたかというと、
実はこういうトイレの電気の消し忘れを発見したという状況こそ、
その人の心が如実に表れる瞬間だと思うからです。
他の例でもいいすよ。
例えば、電車で席に座っていたら、高齢?か?ちょっと微妙な線。。
みたいな方が電車に乗ってきた場合。。
そういう微妙なラインこそ、人となりが表れるんじゃないでしょうか。。

ちなみに、別に電気消さなくても、席譲らなくても、犯罪にはなりません。
でも、愛かどうかは別の話です。

パウロは教会の中に比較的弱いと見える部分があるのは、
互いにいたわりあうためだと言っています。
どっちが正しいとか、どっちが有効とかそんな議論を戦わせて、
分裂を生じさせるためではないと言っています。
いたわりや、目に見えない奉仕というのは、愛がなければできません。
ですから、パウロは13章で愛を語ります。
どのような方法で奉仕するのが正しいか?という事よりも、
人の心にあるもの、愛があるか無いか?の方が重要だからです。

これから先、普段の生活の中でも、「おや?」と思うことはあると思います。
「おや?」で済まなくて、「イラッ。。」という時もあると思います。。
その時、自分の心によぎるものが何であるか
ちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。
そしてそれが、愛であってほしい!と私は神様にお願いします。

そういう事を考えていくと、ある事に気付くはずです。
自分の知らない内に、自分は誰かに支えられて生きているんだという事です。
自分が気付きもしなかった弱さを誰かが補ってくれている感謝を覚えます。
誰かの弱さに直面した時、それはもしかしたら、
神様が与えてくれた恵みのチャンスなのかもしれません。
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 だったら、いいな~。という話。
 
山形には友達がいまして、
その教会も見てみたいよね。。
 
---
 
夏期実習の行き先が発表されましたね。
実習先がはっきり決まっている方、決まっていない方。。
いろいろですが。。
みなさん、がんばって行ってきて下さい(オマエは?
 
---
 
最近、メッセのジャンク招待メールがウザい。。
最近、hotmailの迷惑メールのフィルタいい感じになってきたな。。
と思ってたけど、
新機能が追加された途端に、ジャンクが増えた。。
microsoftの危機管理の薄さが露呈されますな。。
 
---
 
ギリシャ語"ハギオス"のワードスタディが宿題で出されまして、
勉強しております。
「へ~。」って感じです。
もし、発表できる位まとまったら、
闇ぶログにもアップしようかな。
 
---
 
以上、近況報告ですた。
季節はずれの記事をひとつ。。
 
MercyMeというクリスチャンバンドがありまして、
そのバンドのThe Christmas Sessionsというアルバムが
かなりいいCDなんですが。。
そのアルバムの一番最後の曲が、
Joseph's Lullabyという曲なんです。
この曲が、MercyMeのオリジナルなのか、ちょっと分かりませんが。。
 
こんな曲です。
 
 
アルバム全体は、もっとPopsよりで、
盛り上げて楽しんで、伝統的な賛美歌もアレンジして、
アルバムのラストが、この曲で、泣かせて終わるという。。
中々ニクイ演出なのですが。。
 
Joseph's Lullaby
「ヨセフの子守唄」
というタイトルの曲で、
まあ、クリスマスのアルバムだし、
寝かしつけてる子どもは、赤ちゃんイエスという設定ですよね。。
 
救い主として生まれたイエス。
赤ちゃんの頃から神の子らしさを発揮し、
後光がさしていた。
一度も泣いたことがない。。
なんて話は聖書のどこにも書いてないし。。
きっと普通の赤ちゃんとして生まれ、
普通におもらしとかして、
すぐに寝付けずグズったりとかして、
まあ、ヨセフは子守唄とか歌うんだろうな。。
と思うわけです。
 
しかし、普通の子育てと違うのは、
彼が救い主であるという期待と不安。
「君はその栄光の重みを感じているのかい?
その価値を分かっているんだろうか?」
そう優しく歌いかけるヨセフの姿。
こんな赤ちゃんが、自分の子どもが、
預言されてきた救い主なんだろうか?
でも、確かに御使いはこの子だと言った。
羊飼いが、博士たちがやってきた。
だから当然そうなんだろう。
だけど、この心の重みは何だ?
というのがヨセフの心境だったのではないだろうか?
 
全世界待望のメシヤが、
今、自分の腕の中で、完全に脱力した姿で寝ている。
その期待と喜び、救いを抱く喜びを、
ちょっと前に男子寮の祈祷会である方が話してくれた。
その時は、シメオンの祈りを通してだったけど。
そのシメオンに似た心境、それ以上の何かが、
ヨセフの心にはあったに違いない。
 
しかし、聖書には書かれていない。
 
考えてみれば、ヨセフは聖書にほとんど出てこない。
イエスが公生涯に入ってからは、ヨセフは一度も姿を現さない。
もしかして死んでる?という説もあるくらいだ。
ヨセフはどんな気持ちでこのイエスを育てたんだろう。
父親は、妻が妊娠してる時、父親としての自覚がもてないという。
子どもが生まれて初めて、父親としての自覚を確認する。
また父親は、母乳が出せない。
このギャップが父親と母親の大きな差になるという。
まして、ヨセフにとってイエスは、血のつながっていない子である。
ヨセフの心の中で、子育ての苦悩と、
救い主の訪れの希望のギャップは、果てしないモノだったに違いない。
 
そんな聖書に書かれていない部分を、
この歌は、歌っている。
 
「おやすみ、息子よ。
この飼い葉桶がきみのベッドだよ。
君の前には長い道のりがまっている。
いまは、きみのかわいい頭を休めていいんだよ。
 
きみは、その栄光の重みを感じているんだろうか?
その価値を分かっているのかい?
今は、父なる方がきみの心を守っているから、
今夜は眠れるよね。
 
おやすみ。息子よ。
夢を見続けておくれ。
この世界だって、もうちょっと待つことができるから。
今は落ち着いて寝ておくれ。
 
私は信じてる。天の栄光が、
今夜、この腕の中で横になっていることを。
主よ。お願いします。この瞬間だけは、彼を、
私の子どもでいさせてください。
 
おやすみ。息子よ。
かわいい子、目を閉じておくれ。
もうすぐ、きみは大きな事を成し遂げるだろう。
だが今は、わたしのいとしい子だ。」
 
拙訳、ぉレ。。
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