サムライくりすちゃんを目指す、一クリスチャンのにっき
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394 互いにいたわりあうため
Iコリント12:25
「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」
てでが以前、勤めていた会社は、
ポストプロダクションという業種?の会社です。
映像製作の会社なんですが、
撮影が終わったビデオを編集する作業を主にする会社です。
だから、撮影現場に行ったり、
有名人と顔をあわせたりすることはまぁ、めったにありません。。
一つの作品が出来上がっても、
あんまり表に見えてこない作業をしている会社なんす。。
ところが、この仕事が無ければ、
映像はただの断片的な記録になり、作品にはなりません。
いわば、映像作品の骨組みをしているような会社なんです。
世の中には、目に見える仕事と目に見えない仕事がありますが、
教会の奉仕にも同じ事が言えます。
目に見える奉仕と目に見えない奉仕があり、
結果の残る奉仕と、結果の残らない奉仕があります。
例えば、男子寮のトイレの電気がつけっ放しだったので、消すとか。
こういうのは、形の全く残らないものです。
消し忘れた本人は、指摘されなければ、
自分がトイレの電気を消し忘れたなんて夢にも思わないでしょう。。
こういう奉仕は、天に宝を積む奉仕と思いませんか?
どうしてこんな話をしたかというと、
実はこういうトイレの電気の消し忘れを発見したという状況こそ、
その人の心が如実に表れる瞬間だと思うからです。
他の例でもいいすよ。
例えば、電車で席に座っていたら、高齢?か?ちょっと微妙な線。。
みたいな方が電車に乗ってきた場合。。
そういう微妙なラインこそ、人となりが表れるんじゃないでしょうか。。
ちなみに、別に電気消さなくても、席譲らなくても、犯罪にはなりません。
でも、愛かどうかは別の話です。
パウロは教会の中に比較的弱いと見える部分があるのは、
互いにいたわりあうためだと言っています。
どっちが正しいとか、どっちが有効とかそんな議論を戦わせて、
分裂を生じさせるためではないと言っています。
いたわりや、目に見えない奉仕というのは、愛がなければできません。
ですから、パウロは13章で愛を語ります。
どのような方法で奉仕するのが正しいか?という事よりも、
人の心にあるもの、愛があるか無いか?の方が重要だからです。
これから先、普段の生活の中でも、「おや?」と思うことはあると思います。
「おや?」で済まなくて、「イラッ。。」という時もあると思います。。
その時、自分の心によぎるものが何であるか
ちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。
そしてそれが、愛であってほしい!と私は神様にお願いします。
そういう事を考えていくと、ある事に気付くはずです。
自分の知らない内に、自分は誰かに支えられて生きているんだという事です。
自分が気付きもしなかった弱さを誰かが補ってくれている感謝を覚えます。
誰かの弱さに直面した時、それはもしかしたら、
神様が与えてくれた恵みのチャンスなのかもしれません。
「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」
てでが以前、勤めていた会社は、
ポストプロダクションという業種?の会社です。
映像製作の会社なんですが、
撮影が終わったビデオを編集する作業を主にする会社です。
だから、撮影現場に行ったり、
有名人と顔をあわせたりすることはまぁ、めったにありません。。
一つの作品が出来上がっても、
あんまり表に見えてこない作業をしている会社なんす。。
ところが、この仕事が無ければ、
映像はただの断片的な記録になり、作品にはなりません。
いわば、映像作品の骨組みをしているような会社なんです。
世の中には、目に見える仕事と目に見えない仕事がありますが、
教会の奉仕にも同じ事が言えます。
目に見える奉仕と目に見えない奉仕があり、
結果の残る奉仕と、結果の残らない奉仕があります。
例えば、男子寮のトイレの電気がつけっ放しだったので、消すとか。
こういうのは、形の全く残らないものです。
消し忘れた本人は、指摘されなければ、
自分がトイレの電気を消し忘れたなんて夢にも思わないでしょう。。
こういう奉仕は、天に宝を積む奉仕と思いませんか?
どうしてこんな話をしたかというと、
実はこういうトイレの電気の消し忘れを発見したという状況こそ、
その人の心が如実に表れる瞬間だと思うからです。
他の例でもいいすよ。
例えば、電車で席に座っていたら、高齢?か?ちょっと微妙な線。。
みたいな方が電車に乗ってきた場合。。
そういう微妙なラインこそ、人となりが表れるんじゃないでしょうか。。
ちなみに、別に電気消さなくても、席譲らなくても、犯罪にはなりません。
でも、愛かどうかは別の話です。
パウロは教会の中に比較的弱いと見える部分があるのは、
互いにいたわりあうためだと言っています。
どっちが正しいとか、どっちが有効とかそんな議論を戦わせて、
分裂を生じさせるためではないと言っています。
いたわりや、目に見えない奉仕というのは、愛がなければできません。
ですから、パウロは13章で愛を語ります。
どのような方法で奉仕するのが正しいか?という事よりも、
人の心にあるもの、愛があるか無いか?の方が重要だからです。
これから先、普段の生活の中でも、「おや?」と思うことはあると思います。
「おや?」で済まなくて、「イラッ。。」という時もあると思います。。
その時、自分の心によぎるものが何であるか
ちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。
そしてそれが、愛であってほしい!と私は神様にお願いします。
そういう事を考えていくと、ある事に気付くはずです。
自分の知らない内に、自分は誰かに支えられて生きているんだという事です。
自分が気付きもしなかった弱さを誰かが補ってくれている感謝を覚えます。
誰かの弱さに直面した時、それはもしかしたら、
神様が与えてくれた恵みのチャンスなのかもしれません。
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