サムライくりすちゃんを目指す、一クリスチャンのにっき
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214 Squall
この曲、いい曲だよね。
http://jp.youtube.com/watch?v=JQGGM_EYEcM
古いけど。。
ふと、思い出して youtube で見てたら、改めて好きになってしまった。。
最近、これ聞きながらがんばってます。
途中、ちょんぎれてるけど。。
最近、日記書く暇なくて、ごめん。。
もうすぐ、Fall Break です。
そしたら、少しは暇が出てくる予定。。
予定は未定。。
http://jp.youtube.com/watch?v=JQGGM_EYEcM
古いけど。。
ふと、思い出して youtube で見てたら、改めて好きになってしまった。。
最近、これ聞きながらがんばってます。
途中、ちょんぎれてるけど。。
最近、日記書く暇なくて、ごめん。。
もうすぐ、Fall Break です。
そしたら、少しは暇が出てくる予定。。
予定は未定。。
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それは、日本のルーツだからです。
日本で伝道していくならば、避けて通ることのできないものです。
新渡戸稲造の「武士道」という本は、
日本人であり、サムライの出であり、クリスチャンである人が、
世界に向けて、「日本人」を紹介している本です。
彼はその中で、「日本でのキリスト教の伝道がなぜ進まないのか?」
について触れています。
―― 日本におけるキリスト教の伝道事業が、いまだそれほどの成果を上げていないのは、多くの場合、伝道師たちが日本の歴史について無知なためである。現に「異教徒の事績に関心を払ってなんになるのか」という者もいる。その結果、彼らの宗教は、私たちや私たちの先祖が何世紀にもわたって慣れ親しんできた考え方から遠ざかっているのである。一国の歴史を愚弄しても何もはじまらない。いかなる民族の歴史もいかなる文字の記録ももたない、もっとも未開とされるアフリカの人々の来歴でさえ、神自身の手で書かれた人類史の一ページだと思うのだが。 ・・・・・・
その国民の過去の足跡を無視して、宣教師たちはキリスト教を新しい宗教だと主張する。だが私が思うに、それは「かびのはえた古い話」の類である。もしキリスト教がそれぞれの国民に親しみやすい言葉で示されれば、つまり、その国民の道徳的発展においてなじみのある言葉で説かれるならば、人種や国籍を問わず、人々の心にすんなりと宿るのである。
アメリカ的あるいはイギリス的様式のキリスト教、つまり創造主の恩恵と純粋よりも、たぶんにアンゴロ・サクソンの気まぐれや空想を含んでいるキリスト教は、武士道という幹に接ぎ木をするにはあまりにも貧弱すぎる芽である。新しい信仰の布教者たるものは、根も幹も枝もすべて根絶して、福音のタネを荒れ果てた土壌に播くべきであろうか。
たしかにそのような大胆なやり方も可能かもしれない。事実、ハワイでは戦闘的な教会が富そのものを略奪し、先住民族の絶滅にも成功したと言い張っている。だが、このような方法は日本では断じて不可能である。いや、それはイエス自身が地上に神の王国を建てる際にも、けっして採用しなかった方法である。私たちは、聖者であり、敬虔なキリスト教徒であり、そして深遠な学者(ジャウェット)の言葉を、もっと心に留めるべきである。彼はこういうのだ。
「人は世界を異教徒とキリスト教徒とに分けた。だが、前者にどれほどの善が秘められているのか、後者にどれほどの悪が混在しているのかを考えてこなかった。自分の最良の面と隣人の最悪の面とをくらべ、キリスト教徒の理想と、ギリシャや東洋の腐敗とをくらべてきた。公平さを目指さず、自分の宗教のみを誉め、他の様式をもつ宗教について悪口を言い、それで満足してきたのである」 (182-184)
もし、神が世界を支配しているとするならば、
日本人の心に神が創った精神もまた、神の創造物であるはず。
そして、いわゆる「キリスト教」が西洋を介して日本にもたらされたことも、
神の導きであるはず。
ならば、その違いを理解し、日本にあったミニストリーをしていく事は、
神からのある種のチャレンジかもしれません。
現に、青梅教会には、西洋の教会には無いであろう、
書道の作法によって書かれた聖句が架けられている。
あれを見て、「これはキリスト教には無い文化だ。廃止すべきだ。」
という人はいないであろう。。
目に見える面で、その違いを理解しあえるなら、
精神面でも、違いを理解しあえるはずである。
日本人には、日本人にあった信仰があるはず。
その証拠に、同じメッセージを聞いても、アメリカ人と日本人では、反応が全然違う。
人の違いを分かった上で、
キリスト教の本質を見抜いて、日本人にあったやり方で伝道すべきである。
と、てでは思うんだけどな。。
それでも、やっぱり「宗教のグローバリズム化」を進めますか?
この新渡戸稲造の本は、
日本の歴史で言うならば、「戦前」に書かれた本です。
せっかく新渡戸稲造が世界に向けて、グローバリズムへの警鐘をならしたのに、
日本は侵略戦争に走り、世界も大きな戦争へ突入します。
それは、他を完全否定し、自国の利益のみを追求した結果でした。
何が言いたかったのかよく分からなくなってきた。。
ま、キリスト教の本質は「愛」ですよね。
それは、おしつけではないと思うし、
他を理解しない「愛」は無いと思います。
日本に限らず、世界のどこででも、
その人を理解してあげて、その人にあった伝道法を選択していくべきではないでしょうか。
セルフギビングですな。。
自分中心では絶対できないことです。
でも、てでが感じている希望は、
誰一人として、神様によって創られなかった人はいないので、
神様なら誰にでも「愛」を伝えることができるはずです。
と、まあ、締まった感があるので、この辺りで。。
この「締める」という感じも日本人っぽいなと思います。。
最後にこんな長い文章を読んでくださった方、
大変失礼しました。。ありがとうございます。。
引用文献
新渡戸稲造著 「武士道」 岬龍一郎訳 PHP文庫
日本で伝道していくならば、避けて通ることのできないものです。
新渡戸稲造の「武士道」という本は、
日本人であり、サムライの出であり、クリスチャンである人が、
世界に向けて、「日本人」を紹介している本です。
彼はその中で、「日本でのキリスト教の伝道がなぜ進まないのか?」
について触れています。
―― 日本におけるキリスト教の伝道事業が、いまだそれほどの成果を上げていないのは、多くの場合、伝道師たちが日本の歴史について無知なためである。現に「異教徒の事績に関心を払ってなんになるのか」という者もいる。その結果、彼らの宗教は、私たちや私たちの先祖が何世紀にもわたって慣れ親しんできた考え方から遠ざかっているのである。一国の歴史を愚弄しても何もはじまらない。いかなる民族の歴史もいかなる文字の記録ももたない、もっとも未開とされるアフリカの人々の来歴でさえ、神自身の手で書かれた人類史の一ページだと思うのだが。 ・・・・・・
その国民の過去の足跡を無視して、宣教師たちはキリスト教を新しい宗教だと主張する。だが私が思うに、それは「かびのはえた古い話」の類である。もしキリスト教がそれぞれの国民に親しみやすい言葉で示されれば、つまり、その国民の道徳的発展においてなじみのある言葉で説かれるならば、人種や国籍を問わず、人々の心にすんなりと宿るのである。
アメリカ的あるいはイギリス的様式のキリスト教、つまり創造主の恩恵と純粋よりも、たぶんにアンゴロ・サクソンの気まぐれや空想を含んでいるキリスト教は、武士道という幹に接ぎ木をするにはあまりにも貧弱すぎる芽である。新しい信仰の布教者たるものは、根も幹も枝もすべて根絶して、福音のタネを荒れ果てた土壌に播くべきであろうか。
たしかにそのような大胆なやり方も可能かもしれない。事実、ハワイでは戦闘的な教会が富そのものを略奪し、先住民族の絶滅にも成功したと言い張っている。だが、このような方法は日本では断じて不可能である。いや、それはイエス自身が地上に神の王国を建てる際にも、けっして採用しなかった方法である。私たちは、聖者であり、敬虔なキリスト教徒であり、そして深遠な学者(ジャウェット)の言葉を、もっと心に留めるべきである。彼はこういうのだ。
「人は世界を異教徒とキリスト教徒とに分けた。だが、前者にどれほどの善が秘められているのか、後者にどれほどの悪が混在しているのかを考えてこなかった。自分の最良の面と隣人の最悪の面とをくらべ、キリスト教徒の理想と、ギリシャや東洋の腐敗とをくらべてきた。公平さを目指さず、自分の宗教のみを誉め、他の様式をもつ宗教について悪口を言い、それで満足してきたのである」 (182-184)
もし、神が世界を支配しているとするならば、
日本人の心に神が創った精神もまた、神の創造物であるはず。
そして、いわゆる「キリスト教」が西洋を介して日本にもたらされたことも、
神の導きであるはず。
ならば、その違いを理解し、日本にあったミニストリーをしていく事は、
神からのある種のチャレンジかもしれません。
現に、青梅教会には、西洋の教会には無いであろう、
書道の作法によって書かれた聖句が架けられている。
あれを見て、「これはキリスト教には無い文化だ。廃止すべきだ。」
という人はいないであろう。。
目に見える面で、その違いを理解しあえるなら、
精神面でも、違いを理解しあえるはずである。
日本人には、日本人にあった信仰があるはず。
その証拠に、同じメッセージを聞いても、アメリカ人と日本人では、反応が全然違う。
人の違いを分かった上で、
キリスト教の本質を見抜いて、日本人にあったやり方で伝道すべきである。
と、てでは思うんだけどな。。
それでも、やっぱり「宗教のグローバリズム化」を進めますか?
この新渡戸稲造の本は、
日本の歴史で言うならば、「戦前」に書かれた本です。
せっかく新渡戸稲造が世界に向けて、グローバリズムへの警鐘をならしたのに、
日本は侵略戦争に走り、世界も大きな戦争へ突入します。
それは、他を完全否定し、自国の利益のみを追求した結果でした。
何が言いたかったのかよく分からなくなってきた。。
ま、キリスト教の本質は「愛」ですよね。
それは、おしつけではないと思うし、
他を理解しない「愛」は無いと思います。
日本に限らず、世界のどこででも、
その人を理解してあげて、その人にあった伝道法を選択していくべきではないでしょうか。
セルフギビングですな。。
自分中心では絶対できないことです。
でも、てでが感じている希望は、
誰一人として、神様によって創られなかった人はいないので、
神様なら誰にでも「愛」を伝えることができるはずです。
と、まあ、締まった感があるので、この辺りで。。
この「締める」という感じも日本人っぽいなと思います。。
最後にこんな長い文章を読んでくださった方、
大変失礼しました。。ありがとうございます。。
引用文献
新渡戸稲造著 「武士道」 岬龍一郎訳 PHP文庫
「普通」という言葉は嫌いとかいいながら、
普通という言葉を使っている、てでです。。
今週は、
キンロー先生が、セミナリーに来ているということで、
カレッジの生徒もそちらの講義を聴きに行きました。
でも、さっぱり分からなかった~。。
英語じゃなければな~。。
惜しい事だな~。。
分からないながらも、一つ分かったことがある。
キンロー先生は、普通のおじいちゃんだ。
小浜に行った時も同じような印象を持った。
普通すぎて、拍子抜けする感じ。
でも、それで良かったと思った。
石垣に行った時に、そこの牧師先生が言ってたことを思い出した。
「私たちは、John Wesley を信じているのではない。
イエス・キリストを信じているのだ。」
って。。
まあ、その先生は、きよめ派ではないので、
僕がメソジスト教会から来たと知って、そう言ったんだけど。。
つまり、信仰の対象がブレてはいけないという事。
そして、信仰の持ち方も人それぞれという事。
そして、それはキンロー先生に対しても同じ。
そういう意味では、キンロー先生には「普通」のおじいちゃんであって、欲しいのだ。
Inductive の授業で習ったけど、
バイブルコメンタリーの記事に対して、反論してもいいそうだ。
まあ、当然と言えば当然なのだけど、
コメンタリーは、いろいろな記述が載ってて勉強になるんだけど、
鵜呑みにしてたら、やっぱ危険なわけで。
キンロー先生も神学のエキスパートだけど、
違うな。と思ったら、反論してもいいわけで。
そうやって、みんなでもっと深いところに行けたらね~。
みんなで、神様に近づけるわけで。
講義の後で、本にサインもらって、
写真も一緒に撮ってもらった。
ちょっと話しかけて握手してもらったら、ホントに普通のおじいちゃんだった。。
「はっはっは。あぁ、サインかい?あぁ、写真かい?いいよ。」
みたいな。。
友達に聞いた話では、
講義は、いろいろな話題が飛び交って、
最終的には、一本の筋で繋がっているっていう、そういう話だったらしい。
そういう説教ができるってことは、
やっぱり「確信がある」っていうことだと思う。
「神様と共に生きる事に迷いが無い」という感じ。
そういう信仰はすごいよね。。
そういうおじいちゃんになりたいなぁ。。
縁側に座って茶~すすりながら、
静かにハレルヤというおじいちゃんになりたい。。