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い、いい。。
このかわいさと黒さの同居したへんてこさがいい。。
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the source of Loveと言う言葉をまあ、よく見たり聞いたりするわけですが、
最近、てでのブームである。。
神は愛の源ですという単純な言葉だが、
こういう真理って「うん。そうだね。」って簡単に納得できるんだけど、
心に残らないっていうか、
隠されている間は、聞き流してしまって気づけないというか。。
まあ、そんなわけで、
これは、てでが最近見つけた「いい言葉」なのです。。
何かにつけて「キター!the source of Loveだ~!!」ってな感じです。。
ま、それだけなんだけど。。
つまんないな~。。
もちっと、話膨らませてよ。。
はい。。
the source of Love って事は、「神は愛なり。」って言葉に代表されるとおり、
神様は愛なる方だよ。って事なわけで。
ぶっちゃけて言っちゃえば、神=愛なわけで。
この式に直してしまえるなら、
愛=神とも言えるわけで。
ただ、ここで気をつけなければいけないのは、
世の中で言ってる「愛」がこの式に当てはまるというわけではなくて。
神が与える愛というのは、
自分を犠牲にしてでも他人を思う愛なわけで。
この愛に限り、
愛=神とも言えるわけです。か?
そして、この愛がなければ、人は本当の意味で幸せになれないよ。
って言ってるのが聖書なのですかね?
そして、聖書で言ってるところの罪というのは、
この愛を持ってない。持とうとしないというのが、罪であると。。
つまり、愛=神に背を向ける状態です。。
いわゆるキリスト教で、
やれ罪だ~。愛だ~。救いだ~。って、
口うるさく言ってるのは、実はこの事で、
その本当の意味っていうのは、
神様が愛そうとしてるけど、その愛を受けつけない人がいて、
その為の溝にキリストの十字架が橋のように架かり、
どうぞ、こっちへ渡って来て下さい。
幸せになって下さい。という事なんです。
救われたら、これしなきゃいけない~とか、
これしちゃいけない~とか言うのは、
本当は無いんだと思います。
ただ愛を見つめればいいわけです。
愛を受けて流せばいいわけです。。
きっと受け続けるだけでいられなくなる愛が流れてくるから。。
それがthe source of Love
とりとめもなく書きました。
だから脱線しちゃった。。
予期してた方向と違う終点を向かえてしまった。。
これも一興ということで。。
この事件が発覚したのは、
先週の木曜でした。
映画の話になりました。
最近の映画の話になりました。
最近の映画、全然知らない事が判明しました。
3月以来、3ヶ月位映画館に行ってません。。
3月に行ったのも、単館系だったので、最近の流行映画の動向を知りません。
そういえば、eiga.comも全然見てないや。。
と、思って今日見てみたら、デザインが大きく変わってた。。
いつ、変わった??
ありえない。。
結構、落ち込んでます。。
明日、一人で行ってこようかな。。
何でもいいから、観てこようかな。。
原因は分かってます。
忙しすぎ。。
映画館に行くどころか、遊びに行く暇さえない。。
う~む。
教会は楽しいからいいんだけど。。
のんびりできるし、いいんだけど。。
どしよかな。。?
昨日は水曜日。
水曜日は学校と同じ敷地にある教会の祈祷会に参加する日です。
てでは、週末になると、家に帰ってしまうので、
この学校と同じ敷地の教会の方々とは、
この水曜の夜の祈祷会でしか会えません。。
今日の祈祷会は、
カンボジアで宣教しておられる蔦田緑乃先生をお招きしての祈祷会でした。
とってもいい祈祷会でした。
カンボジアって、音楽は短調しかないみたいです。
だから、今日本で歌われるいわゆる西洋風の賛美歌や聖歌は歌えないんだって。。
緑乃先生はそのカンボジアの方々に西洋風の賛美歌を教えてたらしい。
1曲教えるのに、3ヶ月かかるとか。。
ひえ~。。
まあ、全く触れたことのない文化を覚えるというのは、大変ですよね。。
ところで、
蔦田緑乃先生といえば、
てでは一方的に親しみを覚える先生だったのであります。
インマヌエルの教団をよく知らない、てでとしては、
数少ない一応知ってる先生です。。
というのは、
去年の夏、アメリカに戻る飛行機の中で読んだ、
また先週のブログにも書いた本、
デニス・キンロー先生の
We live as Christ、日本語タイトル「キリストのように生きる」
を翻訳された先生なのです。
てでは、この日本語の方の「キリストのように生きる」を
飛行機の中で読み、すごく感動して、
去年の約4ヶ月のアメリカ生活を過ごしたのです。
そして、本当に不思議な導きなのですが、
その本に感動した、という話をミシシッピのジャクソン日本語教会の牧師、田代先生にしたところ、
「その本はね~・・・」と裏話を聞かせていただきました。
その本は、英語で原本を読んだ緑乃先生が田代先生のお宅に行っていた時、
田代先生ご夫婦にいい本ですよね。とお話したそうです。
そして、この本が日本語に翻訳されたらいいですね。という話をしていたら、
田代先生ご夫婦が、
「あなたが訳したらいいじゃない。」と言われ、
緑乃先生が翻訳されて日本語版がでたそうです。
あらまぁ。。
なんと日本のキリスト教界の狭い事。。
さらに、田代先生夫妻は、てでが日本に帰るとき、
この本の原本である英語版、We live as Christをプレゼントして下さいました。
いやぁ~。。てでは祝福されてますね。。
いい人がいっぱいいて。。
そんな訳で、
てでは緑乃先生ってどんな先生だろう?と
思っていたわけです。
一度、3月末のインマヌエルの年会の時、
たまたま田代先生ご夫妻と一緒に座っておられた緑乃先生にお会いしました。
でもその時はあまり話せずにいました。
今回はこんなチャンスがあり、
祈祷会の後、ちょこっとお話できました。
おもしろい先生です。。
なんて、こんな話を書こうと思っていたのではなくて。。
今日は、その緑乃先生を通して語られたメッセージを聞きながら、
「キリストのように生きる」という事を、クリスチャンはもっと深く考えねばならないと思いました。
以前、お会いした蔦田直毅先生(あ、こっちも蔦田ファミリーだった。。)は今の日本の現状、
教会の現状を憂いてる。そんな印象を受けました。
緑乃先生もそんな風に見えました。
そして、その状況を打破するためにも、クリスチャンは十字架の意味を、
きよめの世界をもっと追求しなければいけない。と言ってたように思います。
てでもそう思います。
イエス様の十字架が私たちに与えてくれるのは、
救いと平安です。
なんで、そんな事ができるのか?と言われれば、
「この世界を作ったのは神様だから。」
と、てでは答えるでしょう。
人間を創った神様ならば、人間を救う方法を知ってます。
人間を知らない神様は、人間を救えませんが、
人間を創り、人間になった神様ならば、人間を救えます。
何でもできる神様ならば、人間を救えます。
歩けない神様は、人間と共に歩めませんが、
何でもできる神様は、人間と共に生活したことのある神様は、
人間と共に住み、適切な助言を与える事ができます。
私たちはもっと、この神様を信頼すべきです。
イエス様の時代に車はありませんでしたけれども、
てでは、イエス様は車の構造の全てを把握しておられると思います。
何でもできて、何でも知ってる神様は全ての点において、エキスパートですから。
科学も文学も音楽も医学もカウンセリングも、全てを知ってる神様が、
「あなたは私が創った。あなたを救いたい。」
と言うんだから、もっと信頼していいはずです。
クリスチャンの歩みは、きよめはいつも、どんなことでも、
その呼びかけに応えていく事だと思います。