サムライくりすちゃんを目指す、一クリスチャンのにっき
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261 一歩退く前進
今日は、祈祷会があったので、教会に行ってきた。
「この1週間で何か証はありますか?」
ときかれ、「キリスト者の完全」を読んだこと。
きよさを追い求めて行きたいと思ったことなどを話した。
話し終わった後に、ふと思った。
自分できよめを追求してもたどりつけないこと。
ぼくらは、神様の完全の前にただ自分の醜さを知る事しかできないのだということ。
すると、人間が自然に取る行動は、前進しようと思うことだろうか?
そうではない。
きっと一歩退くのだろうと思った。
どうやっても手にする事のできない完全なきよさを前に、
イザヤはもう生きてはいけないと思った。
神様を見て、死んだようになった人は聖書にたくさん出てくる。
てでは、ちょっとおごりがあったように思う。
完全なきよさを追い求めるという事は、
決してつかめないものを掴もうとするようなことだ。
自分の醜さを知ったとき、一歩退く。
完全なきよさの前に跪く。
その時、差し伸べられる御手こそが人間のきよめなのかもしれない。
どう考えても聖くないものが、
ただ神様の恵みによって、「あなたは聖い。」と言われること。
それは、イエス様の十字架のゆえに。
最早、人は罪に咎められないということ。
いつも神様の前に跪いていること。
感謝を忘れないこと。
その態度で人に接すること。
その歩みがきよめの道かもしれない。
「この1週間で何か証はありますか?」
ときかれ、「キリスト者の完全」を読んだこと。
きよさを追い求めて行きたいと思ったことなどを話した。
話し終わった後に、ふと思った。
自分できよめを追求してもたどりつけないこと。
ぼくらは、神様の完全の前にただ自分の醜さを知る事しかできないのだということ。
すると、人間が自然に取る行動は、前進しようと思うことだろうか?
そうではない。
きっと一歩退くのだろうと思った。
どうやっても手にする事のできない完全なきよさを前に、
イザヤはもう生きてはいけないと思った。
神様を見て、死んだようになった人は聖書にたくさん出てくる。
てでは、ちょっとおごりがあったように思う。
完全なきよさを追い求めるという事は、
決してつかめないものを掴もうとするようなことだ。
自分の醜さを知ったとき、一歩退く。
完全なきよさの前に跪く。
その時、差し伸べられる御手こそが人間のきよめなのかもしれない。
どう考えても聖くないものが、
ただ神様の恵みによって、「あなたは聖い。」と言われること。
それは、イエス様の十字架のゆえに。
最早、人は罪に咎められないということ。
いつも神様の前に跪いていること。
感謝を忘れないこと。
その態度で人に接すること。
その歩みがきよめの道かもしれない。
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