サムライくりすちゃんを目指す、一クリスチャンのにっき
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169 神のわらべと書いて、神童
神童。
映画やってますね。
観てないけど。。
映画とは、全然関係ない日記。。
昨日まで行ってたキャンプとも全然関係ない日記。。
すみませんね。。
神童。
広辞苑によると、
「才知のきわめてすぐれた児童。」
児童だから、年齢から見て、”子供”の事。
歴史上、または、ちまたのニュースでも、
神童ともてはやされた子供はたくさんいた。
彼らが大人になってどうなったか、それは分からない。
あるいは、”天才”になった人もいる。
天才。
広辞苑によると、
「天性の才能。生まれつき備わったすぐれた才能。また、そういう才能をもっている人。」
天が与えた才能。他の人には無い才能。
逆に、
神童とか、”もてはやす人”はどういう気持ちで「神童」と他人を呼ぶのだろう。
自分には、無いものとか、うらやましいとか、
そういう気持ちだろうか。。
あるいは、自分の夢を重ねてみたり、
応援したりするかもしれない。
もっかい、神童という言葉を見てみる。
「神の子」じゃないか。。
日本人の考える神は、八百万いるけれど、
てでが思うに、一つ共通しているのは、
みな、人と切り離されている者だ。
よく言えば、人の世界に囚われない者たちだ。
悪く言えば、自己中だ。。
そんな「神」から才能を与えられた「神童」は、
一度、この世界に生まれると、二度と神とコミュニケーションをはかる事なく、
この人の世界で人の社会にもまれていく。
そこにドラマがあり、最後に神とコミュニケーションをとり、
ハッピーエンドか、あるいは・・・いずれにしろ、話は終わる。
そういうお話になるのは、
理由がいくつかあるが、一つは、前にも書いた、
「人間を描くため」であろう。。
もう一つ、考えられるのが、
「神の力が制限つき」で「神が人の世界と切り離された世界の住人」
だからかもしれない。
教会に来ると、教わるのは、
「人はみな、神の子」
であること。
日本人の八百万の価値観で行くと、
「神童」である、人間は、
生まれてから、一度も神とコミュニケーションをはかる事無く、
「この世界とは・・」とか、
「人間はどこからきたのか・・」とか、
「神はいるのか・・」とか、
考えながら、最終的に神からメッセージを受けるか、
あるいは、受けたような気になって、死ぬ。
そこには、ドラマがあり、人間がキチンと描かれ、
涙そそるだろう。。
しかし、そこには、救いも無ければ、
神がいてもいなくてもまあ、いいや。みたいな、そんな感じさえする。。
でも、教会で教える神は、
コミュニケーションの神で、制限なしの神。
その価値観からすると、
人は生まれた時から、神からのメッセージを受け続け、
「この世界とは・・」とか、
「人間はどこからきたのか・・」とか、
「神はいるのか・・」とか、
考えなくても、神からの恵みを受け続け、
やがて、神からの愛を受けるか受けないか、選択して死ぬ。
死んだ後、どうなるかは、見てないから、知らない。
約束は一つ。
愛を受ければ、いつまでも生きる。
それが、制限なしで、コミュニケーションの神の子供。
映画やってますね。
観てないけど。。
映画とは、全然関係ない日記。。
昨日まで行ってたキャンプとも全然関係ない日記。。
すみませんね。。
神童。
広辞苑によると、
「才知のきわめてすぐれた児童。」
児童だから、年齢から見て、”子供”の事。
歴史上、または、ちまたのニュースでも、
神童ともてはやされた子供はたくさんいた。
彼らが大人になってどうなったか、それは分からない。
あるいは、”天才”になった人もいる。
天才。
広辞苑によると、
「天性の才能。生まれつき備わったすぐれた才能。また、そういう才能をもっている人。」
天が与えた才能。他の人には無い才能。
逆に、
神童とか、”もてはやす人”はどういう気持ちで「神童」と他人を呼ぶのだろう。
自分には、無いものとか、うらやましいとか、
そういう気持ちだろうか。。
あるいは、自分の夢を重ねてみたり、
応援したりするかもしれない。
もっかい、神童という言葉を見てみる。
「神の子」じゃないか。。
日本人の考える神は、八百万いるけれど、
てでが思うに、一つ共通しているのは、
みな、人と切り離されている者だ。
よく言えば、人の世界に囚われない者たちだ。
悪く言えば、自己中だ。。
そんな「神」から才能を与えられた「神童」は、
一度、この世界に生まれると、二度と神とコミュニケーションをはかる事なく、
この人の世界で人の社会にもまれていく。
そこにドラマがあり、最後に神とコミュニケーションをとり、
ハッピーエンドか、あるいは・・・いずれにしろ、話は終わる。
そういうお話になるのは、
理由がいくつかあるが、一つは、前にも書いた、
「人間を描くため」であろう。。
もう一つ、考えられるのが、
「神の力が制限つき」で「神が人の世界と切り離された世界の住人」
だからかもしれない。
教会に来ると、教わるのは、
「人はみな、神の子」
であること。
日本人の八百万の価値観で行くと、
「神童」である、人間は、
生まれてから、一度も神とコミュニケーションをはかる事無く、
「この世界とは・・」とか、
「人間はどこからきたのか・・」とか、
「神はいるのか・・」とか、
考えながら、最終的に神からメッセージを受けるか、
あるいは、受けたような気になって、死ぬ。
そこには、ドラマがあり、人間がキチンと描かれ、
涙そそるだろう。。
しかし、そこには、救いも無ければ、
神がいてもいなくてもまあ、いいや。みたいな、そんな感じさえする。。
でも、教会で教える神は、
コミュニケーションの神で、制限なしの神。
その価値観からすると、
人は生まれた時から、神からのメッセージを受け続け、
「この世界とは・・」とか、
「人間はどこからきたのか・・」とか、
「神はいるのか・・」とか、
考えなくても、神からの恵みを受け続け、
やがて、神からの愛を受けるか受けないか、選択して死ぬ。
死んだ後、どうなるかは、見てないから、知らない。
約束は一つ。
愛を受ければ、いつまでも生きる。
それが、制限なしで、コミュニケーションの神の子供。
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