サムライくりすちゃんを目指す、一クリスチャンのにっき
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375 修養会での閉会説教
今年の夏、清里で行われた青梅教会の修養会。
その修養会で、閉会礼拝の説教をしてくださいと頼まれた。
修養会では、開会、閉会を含めて計6回の礼拝がされて、
間の4回は、教会の先生方がピリピを1章ずつ説教した。
ピリピがテーマの修養会で、閉会礼拝の説教
と、頼まれたときから、ガラテヤ4:19でやろうと決めていた。
そして、ガラテヤ4:19の学びを、てでがアメリカで一緒に勉強した仲間と一緒にやった。
なので、お世話になった皆様にお礼を込めて、
説教全文を載せます。
神様が示して下さった恵みを共に分かち合って下さい。
---
「キリストが形造られるまで」
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
ガラテヤ4:19
序
修養会も最後の礼拝を迎えました。楽しかったでしょうか?とても楽しく、また恵みに満ちた修養会であった事をお祈りします。また今も生きているキリストと一段と深く交われた修養会であったことを信じて感謝します。
私たちはこの修養会で、ピリピ書を学んできました。ピリピ書の中からキリストについて学んできました。また、テーマにあるとおり、「キリストの福音にふさわしく生きる」ことを学んできました。学びはひと段落つきましたが、私たちの人生が終わったわけではありません。修養会が終わっても、私たちの「キリストの福音にふさわしく生きる」生活は続くと思います。Wesley Collegeに通っていた時、Spiritual Formationというクラスを受けました。日本語では、「霊的形成」というのでしょうか?「霊的成長」というのでしょうか?そのクラスで、このSpiritual Formationのゴールは、ガラテヤ4:19にある通り、私たちのうちに「キリストが形造られる」事だよ。と学びました。修養会の学びが終わりのときだよ。とか、礼拝の祝祷の時だよ。とは習いませんでした。私たちの「キリストの福音にふさわしく生きる」歩みも同じであると思います。ゴールは、私たちのうちにキリストが形造られるまで続きます。これは私たちの神様は礼拝の時だけの神様ではなく、修養会の時だけの神様でもなく、実は私の命の日の限り、また天国に行ってからも続く神様と私の恵みの歩みだよ。とも言ってくれていると思います。私たちと神様の交わりの時は、これからもずっと続くよ。という恵みです。
1
さて、その恵みの歩みについてもう少し見てみたいと思います。私たちは、このキリストを学び、また知ったので、このキリストと同じ事をして生きていくべきでしょうか?私がキリストと同じ行いをすることが、「キリストの福音にふさわしく生きる」ことでしょうか?ガラテヤの教会の方々はとても熱心でした。キリストについて、ユダヤの教えについて、深く深く学びました。そしてその行動にならって同じ事をするようになりました。ところが、いつしかその行動自体が目的となってしまい、真理から外れてしまったのです。
すべての良いと思われる行動をするな。というのではありません。律法が悪い。というのでもありません。信仰の伴わない行動は意味がない。ということ。私たちは私たちの行動によって救われたのではないということ。行動によって救われたのではないのなら、なぜ今また救いを行動によって完成しようというのか?ということです。キリストの恵みによって救われた私たちですから、これからの歩みもキリストの恵みによって歩んでいくべきです。
パウロは、ガラテヤ4:19にある通り、「キリストが形造られる」と言っています。「形造られる」という単語は、文法用語で言うならば、受身形です。だれかに「形造っていただきなさい」という意味です。自分で「形造りなさい」という意味ではありません。だれが「形造る」のかといえば、もちろん神様です。神様が私のうちにキリストを形造るのです。私たちが、私たちの行動によってキリストを形造るのではなく、神が私のうちにキリストを形造るのです。
2
「形造られる」という言葉をもう少し見てみたいと思います。「形造られる」という言葉は、ギリシャ語の聖書では、一つの単語で表現されているそうです。その単語の意味は、「母親の胎内で赤ちゃんが形成されていく」という意味だそうです。哺乳類という動物は不思議だと思います。卵で生まれないんです。他の動物は卵で生まれる動物が多いですが、人間をはじめ哺乳類は、お母さんのお腹の中で大きくなるんです。ある程度、大きくなってから生まれます。人間の赤ちゃんが生まれる時は、必ずお母さんのお腹の中で成長します。逆に言うと、お母さんのお腹の中以外の場所ではうまく成長できません。
神が私たちのうちにキリストを形造る時、私たちは、神様の恵みの中にいる必要があります。神様との交わりの中にとどまり続ける必要があります。他の場所ではうまく成長できないからです。様々な手段を通して私たちは、神様との交わりを保ちますが、その交わりを続けていく必要があるのです。神はいつも、その交わりの中に私たちを招いていてくださいます。修養会の後もずっとです。神様が、私たちのうちにキリストを形造ってくださるという確信を持ってその交わりを続けていくようにしましょう。
3
キリストが私たちのうちに形造られたなら、私たちは本当の意味で、神を愛し、人を愛するようになります。私たちは、自分の心・思いで生きるのではなく、キリストの心・思いで生きるようになるからです。キリストの心・思いとは、今まで修養会で学んできました。キリストの謙遜、わが身を犠牲にする愛などです。また、このガラテヤ書にも書いてあります。今日は、4:19だけを読みましたが、その前を見ると、ガラテヤの人がキリストのように生きていた事が記されています。そこには、自分を犠牲にしても、神と人のために生きるガラテヤの人々の姿があります。キリストの心・思いで満たされるなら、私たちは、本当の意味で神と人を愛し、神と人のために生きるようになります。なぜなら、キリストこそ、真に、神と人を愛し生きたお方であったからです。このキリストが私たちのうちに形造られるなら、私たちは、自然とこのキリストの心・思いに満たされるようになるのです。自然と神と人とを愛するようになります。
結
私たちは、この修養会でキリストの恵みについてたくさん学びました。キリストの約束についてたくさん学びました。それは、この修養会を通して、私たちが「キリストの福音にふさわしく生きる」歩みを新たに始めるためです。「キリストの福音にふさわしく生きる」歩みは、この修養会が終わっても続く恵みです。それは、キリストが私たちの人生を共に歩んでくださり、私たちのうちにキリストを形造ってくださる歩みであります。キリストの思いに満たされる歩みであります。その歩みは神が私たちに成してくださる恵みの歩みです。
その修養会で、閉会礼拝の説教をしてくださいと頼まれた。
修養会では、開会、閉会を含めて計6回の礼拝がされて、
間の4回は、教会の先生方がピリピを1章ずつ説教した。
ピリピがテーマの修養会で、閉会礼拝の説教
と、頼まれたときから、ガラテヤ4:19でやろうと決めていた。
そして、ガラテヤ4:19の学びを、てでがアメリカで一緒に勉強した仲間と一緒にやった。
なので、お世話になった皆様にお礼を込めて、
説教全文を載せます。
神様が示して下さった恵みを共に分かち合って下さい。
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「キリストが形造られるまで」
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
ガラテヤ4:19
序
修養会も最後の礼拝を迎えました。楽しかったでしょうか?とても楽しく、また恵みに満ちた修養会であった事をお祈りします。また今も生きているキリストと一段と深く交われた修養会であったことを信じて感謝します。
私たちはこの修養会で、ピリピ書を学んできました。ピリピ書の中からキリストについて学んできました。また、テーマにあるとおり、「キリストの福音にふさわしく生きる」ことを学んできました。学びはひと段落つきましたが、私たちの人生が終わったわけではありません。修養会が終わっても、私たちの「キリストの福音にふさわしく生きる」生活は続くと思います。Wesley Collegeに通っていた時、Spiritual Formationというクラスを受けました。日本語では、「霊的形成」というのでしょうか?「霊的成長」というのでしょうか?そのクラスで、このSpiritual Formationのゴールは、ガラテヤ4:19にある通り、私たちのうちに「キリストが形造られる」事だよ。と学びました。修養会の学びが終わりのときだよ。とか、礼拝の祝祷の時だよ。とは習いませんでした。私たちの「キリストの福音にふさわしく生きる」歩みも同じであると思います。ゴールは、私たちのうちにキリストが形造られるまで続きます。これは私たちの神様は礼拝の時だけの神様ではなく、修養会の時だけの神様でもなく、実は私の命の日の限り、また天国に行ってからも続く神様と私の恵みの歩みだよ。とも言ってくれていると思います。私たちと神様の交わりの時は、これからもずっと続くよ。という恵みです。
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さて、その恵みの歩みについてもう少し見てみたいと思います。私たちは、このキリストを学び、また知ったので、このキリストと同じ事をして生きていくべきでしょうか?私がキリストと同じ行いをすることが、「キリストの福音にふさわしく生きる」ことでしょうか?ガラテヤの教会の方々はとても熱心でした。キリストについて、ユダヤの教えについて、深く深く学びました。そしてその行動にならって同じ事をするようになりました。ところが、いつしかその行動自体が目的となってしまい、真理から外れてしまったのです。
すべての良いと思われる行動をするな。というのではありません。律法が悪い。というのでもありません。信仰の伴わない行動は意味がない。ということ。私たちは私たちの行動によって救われたのではないということ。行動によって救われたのではないのなら、なぜ今また救いを行動によって完成しようというのか?ということです。キリストの恵みによって救われた私たちですから、これからの歩みもキリストの恵みによって歩んでいくべきです。
パウロは、ガラテヤ4:19にある通り、「キリストが形造られる」と言っています。「形造られる」という単語は、文法用語で言うならば、受身形です。だれかに「形造っていただきなさい」という意味です。自分で「形造りなさい」という意味ではありません。だれが「形造る」のかといえば、もちろん神様です。神様が私のうちにキリストを形造るのです。私たちが、私たちの行動によってキリストを形造るのではなく、神が私のうちにキリストを形造るのです。
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「形造られる」という言葉をもう少し見てみたいと思います。「形造られる」という言葉は、ギリシャ語の聖書では、一つの単語で表現されているそうです。その単語の意味は、「母親の胎内で赤ちゃんが形成されていく」という意味だそうです。哺乳類という動物は不思議だと思います。卵で生まれないんです。他の動物は卵で生まれる動物が多いですが、人間をはじめ哺乳類は、お母さんのお腹の中で大きくなるんです。ある程度、大きくなってから生まれます。人間の赤ちゃんが生まれる時は、必ずお母さんのお腹の中で成長します。逆に言うと、お母さんのお腹の中以外の場所ではうまく成長できません。
神が私たちのうちにキリストを形造る時、私たちは、神様の恵みの中にいる必要があります。神様との交わりの中にとどまり続ける必要があります。他の場所ではうまく成長できないからです。様々な手段を通して私たちは、神様との交わりを保ちますが、その交わりを続けていく必要があるのです。神はいつも、その交わりの中に私たちを招いていてくださいます。修養会の後もずっとです。神様が、私たちのうちにキリストを形造ってくださるという確信を持ってその交わりを続けていくようにしましょう。
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キリストが私たちのうちに形造られたなら、私たちは本当の意味で、神を愛し、人を愛するようになります。私たちは、自分の心・思いで生きるのではなく、キリストの心・思いで生きるようになるからです。キリストの心・思いとは、今まで修養会で学んできました。キリストの謙遜、わが身を犠牲にする愛などです。また、このガラテヤ書にも書いてあります。今日は、4:19だけを読みましたが、その前を見ると、ガラテヤの人がキリストのように生きていた事が記されています。そこには、自分を犠牲にしても、神と人のために生きるガラテヤの人々の姿があります。キリストの心・思いで満たされるなら、私たちは、本当の意味で神と人を愛し、神と人のために生きるようになります。なぜなら、キリストこそ、真に、神と人を愛し生きたお方であったからです。このキリストが私たちのうちに形造られるなら、私たちは、自然とこのキリストの心・思いに満たされるようになるのです。自然と神と人とを愛するようになります。
結
私たちは、この修養会でキリストの恵みについてたくさん学びました。キリストの約束についてたくさん学びました。それは、この修養会を通して、私たちが「キリストの福音にふさわしく生きる」歩みを新たに始めるためです。「キリストの福音にふさわしく生きる」歩みは、この修養会が終わっても続く恵みです。それは、キリストが私たちの人生を共に歩んでくださり、私たちのうちにキリストを形造ってくださる歩みであります。キリストの思いに満たされる歩みであります。その歩みは神が私たちに成してくださる恵みの歩みです。
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