サムライくりすちゃんを目指す、一クリスチャンのにっき
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132 放蕩息子の兄へ…
今日の日本語教会のメッセージは、放蕩息子の兄の話だった。
放蕩息子。。
知らない人のために。。こんな話。。
父親の財産を分けてもらった兄と弟。
すぐに弟は全財産を持って、家を出る。
そして、食べまくり、遊びまくり、あっという間に全て使い切ってしまう。
お金が無くなって、食べるにも、困り果て、汚い雑用の仕事もするが、
ある日、家に帰ろうと決心する。
父親に謝って、雇い人の一人にしえもらおうと家に帰る。
帰ってきた弟を見つけて、父親は、弟を抱きしめ、良い服を着せ、ご馳走を出し、
弟の帰ってきた日を喜んだ。
ここまではかなりいい話。
誰でもすぐ納得。。
しかし、この話はここで終わらず…
兄登場。
たまには、聖書を引用してみよう。。
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』
ちょっと長かった。。
ねたみ。
てでは、自信持って言える。
てでは、放蕩息子の兄だ。。
みんながうらやましくてしょうがなかった。。
自分ができないことをやって、楽しんでいるから。
この話の父親は、兄を愛していなかったわけではなく、
兄の生活にとって、それが当たり前すぎて、分からなかったんだと思う。
兄の生活には、刺激がなく、平凡だった。
だから、刺激があり、人の涙をそそるような感動話を弟が演じたとき、
ねたみが生まれたんだろう。。
このお話の兄弟は、二人とも、自己中心だった。。
以前、てでの弟が、
電車で出かけて、家から1時間ちょっと程の場所まで行った。
そこで、友達と遊んでいて、気付いたのだろう。。
「財布を家に忘れた。」と、家に電話してきた。
てでの親は、わざわざ、財布を届けに行った。
てでには、その行動が信じられなかった。。
てでがもし、弟の立場だったら、まず、家に電話するなんて発想がでないし、
親は絶対に届けになんて来てくれないと思ってた。
そんな話をしたら、てでの親は言った。
「きっと、届けに行ったよ。」
どんなに甘ったれだと思っても、きっと届けに行っただろう。と。。
てでは、親の愛を、勝手に狭めて、苦しんでいたんだ。。と、その時初めて気付いた。。
神様は無限なお方。
もし、私たちが人をねたんでいるとするなら、
それは、私たちが、神様の愛を勝手に狭めているんだと思う。
そして、勝手に、あの子の祝福は、自分には来ないと決め付けてる。
いつも、いつでも受け取る事ができるのに。。
神様、もっともっと祝福して下さい。という祈りを、
私たちは、もっともっとも~~~~っと、していいと思う。
放蕩息子。。
知らない人のために。。こんな話。。
父親の財産を分けてもらった兄と弟。
すぐに弟は全財産を持って、家を出る。
そして、食べまくり、遊びまくり、あっという間に全て使い切ってしまう。
お金が無くなって、食べるにも、困り果て、汚い雑用の仕事もするが、
ある日、家に帰ろうと決心する。
父親に謝って、雇い人の一人にしえもらおうと家に帰る。
帰ってきた弟を見つけて、父親は、弟を抱きしめ、良い服を着せ、ご馳走を出し、
弟の帰ってきた日を喜んだ。
ここまではかなりいい話。
誰でもすぐ納得。。
しかし、この話はここで終わらず…
兄登場。
たまには、聖書を引用してみよう。。
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』
ちょっと長かった。。
ねたみ。
てでは、自信持って言える。
てでは、放蕩息子の兄だ。。
みんながうらやましくてしょうがなかった。。
自分ができないことをやって、楽しんでいるから。
この話の父親は、兄を愛していなかったわけではなく、
兄の生活にとって、それが当たり前すぎて、分からなかったんだと思う。
兄の生活には、刺激がなく、平凡だった。
だから、刺激があり、人の涙をそそるような感動話を弟が演じたとき、
ねたみが生まれたんだろう。。
このお話の兄弟は、二人とも、自己中心だった。。
以前、てでの弟が、
電車で出かけて、家から1時間ちょっと程の場所まで行った。
そこで、友達と遊んでいて、気付いたのだろう。。
「財布を家に忘れた。」と、家に電話してきた。
てでの親は、わざわざ、財布を届けに行った。
てでには、その行動が信じられなかった。。
てでがもし、弟の立場だったら、まず、家に電話するなんて発想がでないし、
親は絶対に届けになんて来てくれないと思ってた。
そんな話をしたら、てでの親は言った。
「きっと、届けに行ったよ。」
どんなに甘ったれだと思っても、きっと届けに行っただろう。と。。
てでは、親の愛を、勝手に狭めて、苦しんでいたんだ。。と、その時初めて気付いた。。
神様は無限なお方。
もし、私たちが人をねたんでいるとするなら、
それは、私たちが、神様の愛を勝手に狭めているんだと思う。
そして、勝手に、あの子の祝福は、自分には来ないと決め付けてる。
いつも、いつでも受け取る事ができるのに。。
神様、もっともっと祝福して下さい。という祈りを、
私たちは、もっともっとも~~~~っと、していいと思う。
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