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7-8年前、
大学で映像製作のサークルにいた時、
After Effectsなるものの存在を始めて聞いた。
Adobe社が出してる映像製作ツールなんだけど。
その頃聞いたのは、CGとか使って映像に効果を出すツールだと言う。
Adobe社は、Premiereという映像編集ツールを出していて、
ビデオカメラで映像撮って来て、
編集するのは、Premiereでできた。
大学では使ってなかったけど、
PremiereやAffter Effects、
他にもAdobe社が出してる製品は、Photoshopとか、Illustratorとか、
プロも使ってるようなスグレモノが多い。。
ボクは大学ではもっぱら編集作業が多かったので、
「After Effects?ふ~~ん。CGやる人用でしょ?」
くらいにしか考えていなかった。。
しかし。。
この代々木ゼミナールのCMを見てほしい。。
コレは、
Kinetic Typography(キネティック・タイポグラフィ)という映像表現手法らしい。
動く文字だ。
文字が動いてどうするの?
文字が動いて、主張するのだ。。
文字が動いて、その文字が持つ独特の感情を表現するのだ。
NHKの「日本語であそぼ」では、よく使われている。
あの番組はプロが作っているけれど。。
文字も絵も動くけれど。。
コレ。
コレが、Affter Effectsを使えば作れるらしい。。
思えば、Flashとか、Affter Effectsは、
映像製作というよりは、CG製作に近い作業で、
ちょっと難しいし、絵心のないボクには、専門外だと思っていた。。
すいませんでした。。
アメリカでは、もうかなり前から一般に使われていて、
かなりカッコいいものがたくさんYoutubeにはあがっている。
日本でも段々増えてきた。
その内のいくつかを紹介。
上のは、人気アニメのけいおん!のエンディングテーマ。
下は、ご存知BeatlesのHelp!です。
日本語だと日本語でいい味でるし、
英語も英語で、かなりポップな味になる。
フォントの使い方や、色、大きさもそれぞれ味付けに一役買っている。
何より、歌詞を深く味わえるし、
言葉の持っている感動を見ることができるのだ。
これがKinetic Typography。
いまや、映像で自己表現しようと思っても、
ビデオカメラは要らない時代になってしまった。。
すげ~時代だ。。
そんな時代。
教会はどうする?
日本の教会では、会堂にスクリーンを吊るすか吊るさないか?
みたいな議論で盛り上がったりしているが、
アメリカでは、賛美歌、聖書、説教のポイントなどをプロジェクタで写すのが定着しつつある。
そんなアメリカの教会だからこそできるKinetic Typographyが実はある。
これ。
どっかで見たことあるんじゃない??
Dr. Lockridgeという説教者の説教にKinetic Typographyを付けたもの。
これが教会の会堂で大きなスクリーンに出てくると想像して見てください。
これはかなり強いインパクトがあります。
ま、コレが全てとは言いませんが、
教会主導で一本映画を作るとかっていうよりは、
ずっと踏み出しやすい一歩ではあるかと。。
最後に、クリスマスのKinetic Typographyを紹介。。
みなさん、よいクリスマスを。
神学の領域で働く宗教家。
心理学の領域で働く臨床心理士。
最近の傾向として、心理学と神学の領域があいまいになりつつある。
というらしい。
スピリチュアリティという言葉の流行がソレだ。
心理学というとちょっと難しそう。
宗教というとアレルギーがでる。
その中間、いいとこ取り(したつもり。。)が、スピリチュアリティということだ。。
そして、神学の分野で働く牧師。
魂のケアを仕事としている人。
その牧師が心理学を勉強している。
これは、10年くらい前からブームになり、
もしかしたら、今ではスタンダードになりつつある。。
かく言うボクも、心理学の本を読んでいる。。
確かにココから学ぶことは多い。
しかし、これでいいのだろうか?というのが授業で出た話。
真剣に心理学の分野で働いている臨床心理士は、
心理学で扱える領域に限界があることを感じているらしい。
心理学の領域を超えた、神学の領域でないと扱えない問題がある。
それをやっている牧師が、なぜ心理学の領域に踏み込んでくる必要があるのか?という事だ。
授業でその話を聞いた時は、いまひとつピンとこなかった。
心理学で扱える領域、神学で扱える領域。
その区別は何だ?
魂のケア。
この言葉がひっかかった。
また、「愛すること、生きること」の話になってしまうけれど、
この本にちょっとしたヒントがあった。
神学は、宗教的、
心理学は、科学的。
聖書では、たましいと霊を別々に扱う場面がある。
また、心と精神とを別々に扱うふしもある。
この辺り、科学で育った現代人には、分かりづらい概念だと思う。
ボクはさっぱり分からない。。
聖書が語る人間は、魂と霊と体がある生き物だ。
でも、現代人の感覚では、魂と霊は一緒だ。
どちらも、心といわれ、
人間は、心と体の2つでできているというのが、現代的な考え方なのではなかろうか?
すると、心理学も神学も同じモノ扱っているように見える。
ところが、聖書は、そこを分ける。
心理学を専門にしている人も、限界を感じる。
心理学は、かなり科学的な面を持つらしい。
治療を目的としているなら確かにその通りだ。
違う患者に、同じ治療を施して、同じ効果が出ないと困る。。
治らないことになる。。
科学とは、再現可能でなければならない。
それに対して、神学は文字通り、神から入る。
神とは何か?
神という一人(?)の人格に焦点を当て、
この方がどういうお方で、何をするのか?と話が進む。
そもそも出発点が全然違う。。
これが心理学にある領域での限界を与えることになる。
科学的に神を再現可能と捉えるのは難しい。。
同時に、神学の分野に一つの警戒を与えていると思う。
それは、再現可能かどうかは、人や方法に委ねられていない。
という点だ。
魂のケアは、全的に神の意志による。
宗教家は確かに、神の代弁者たりえる。
それゆえに、心理学で解析不能、治療不能な事に対して、
絶対的な神の名において、癒しを与える可能性もある。
神には、再現可能か不可能かは問題でないからだ。
しかし、これは、代弁者の力によってではないし、
神の力をとりつぐ手段や方法によってでもない。
ただ神の意志如何にかかっている。
神が「癒す」と言えば癒される。
神が「癒さない」と言えば、癒されないのだ。
神学に関わる宗教家はこの事実を見落とさないようにしなければいけない。
心理学は、確かに学ぶところも多い。
人との付き合いに大きな示唆を与える。
でも、魂のケアはできない。
神学は、確かに神の何たるかを教えてくれる。
魂のケアについても教えてくれる。
でも、代弁者は神にはならない。
神を利用することもできない。
ただ神の恵みを信じるのみ。