サムライくりすちゃんを目指す、一クリスチャンのにっき
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と考えるのが、人間のようである。
それは、クリスチャンも同じ。
聖書の権威について学んでいる。
聖書は、誰が書いたのか?
どのようにして書かれたのか?
何をもって聖書と呼ぶのか?
教会の歴史の中で、そのような議論が数多くなされてきた。
初めの頃は、聖書が神の言葉であることを疑う人はいなかったようだ。
だって、聖書に書いてあるし。。
ってなもんだ。。
はがきが送られてきて、差出人がかいてあるけど、
これは本当にその人から送られてきたのだろうか?
と考えるのは、不毛だ。。
そういう議論が不毛でないのは、
事件に巻き込まれた時と、
聖書の話くらいなもんだろう。。
というのは、聖書に関する内容は、
人間の本質に関する内容でもあるからだ。
と思っていたんだが。。
どうやら、その人間の本質に関する内容の核も、
神の問題らしい。
と思えてきた。
聖書を科学的に考察して、
歴史批評学的に調べ上げようとすると、
どうしてもひっかかる部分がある。
まあ、ひっかからない歴史的書物の方が少ないんだろうけど。。
つまり、神の存在の問題と、奇跡の問題だ。
どちらも科学や、理性から逸脱している。
超越性の問題だ。
たとえば、古代の史料の中には、
ある王様は、万単位の年数、国を治めました。
とか、平気で書いてあるらしい。
そういうものは、科学的に見ておかしいので、
「まあ、長い間って意味だろう。」と解釈する。
同じような理屈で、
キリストは十字架で死んで蘇ったらしい。
とか平気で書いてある部分を読むと、
「まあ、一回気絶して、目覚めたんじゃないの?」
と解釈するしかないのだ。
しかし、そういった神の存在に関する事柄や、
奇跡などを聖書から除くと、何が残るのか?
ある人たちは、それでも信仰は残ると言うし、
ある人は、イエスはとても高度な倫理観をもった人だった。と見る。
そして、それに倣って生きていきましょう。
より良い世の中を作っていきましょう。
というものになる。
こういう見方に対して、すごく妥当な文章があった。
引用する。
「(福音は)この世の文化的哲学的所与以上の何物でもなくなってしまい、
ある意味で現代人に受容されやすくなるが、
皮肉にも誰もそれを特別に欲しないものになってしまう」
哲学的示唆が欲しければ、プラトンやアリストテレスがいる。
高度な倫理基準が欲しければ、いくらでも国連で会議すればいい。
泣ける歌が欲しければ、J-PopのCDを買えばいいし、
かわいいキャラクターが必要なら、ディズニーランドに行けばいいのだ。
科学的な教会や聖書の提供するものなんて、
2,000年も経って使い古された、
アンティークマニアだけを満足させるようなものだけだ。
そういうことだ。
聖書を、人間的価値観に満足できるような形に直すことはできない。
理由は簡単。
聖書を書いた人は、人間的価値観で書いていないからだ。
神が書いたのだから。
聖書には、神の事が書いてある。
普通に聖書読む人は、神の問題を避けて通れない。
それでも、科学的な聖書が欲しい、
神の問題を避けて通ろうという人は何が欲しいのか?
私たちの心の内側に潜むそうしたい衝動は、
何がしたいのか?
それは、神的なものが欲しいということだろう。
聖書にあるいい話。
哲学的な話。
高度な倫理観。
心躍らせる冒険活劇。
そういうものが欲しいのだ。
しかし、それは自分の価値観が脅かされるほどには欲しくない。
自分の価値観を保ちつつ、
神的要素だけ欲しいのだ。
自分の人生に口出しするような迷惑な神はいらない。
この世を支配し、自分を脅かすような神にはいてほしくない。
そういう気持ちが人間にはあるのだ。
この世の全て、自分の人生にまつわる事全てを自分の思うがままにしたい。
「神のようになれたら…」
その後に続く言葉は、具体的な内容かもしれない。
いろいろな言葉が当てはまるだろう。
しかし、その根本に潜むのは、
「神のようになれたら、
もう神にも誰にも口出しさせない。」
という考えだろう。
それを高慢と呼ぶのかもしれない。
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